『one』


誰かのために、何かがしたくて。






少年は――――父親の工場から、ペンキの缶を一缶持ち出した。











「あれ‥‥君、何してるの?」
思っていた以上に重い缶を引き摺って和菓子屋の前を通ると、一人の娘に声を掛けられる。
橙の和服に真っ白な襷がよく似合う、笑顔の素敵な町の看板娘だ。 しかし少年は何も答えず、手に持っていたスケッチブックに何やら書き出した。

『ひみつ』
「意地悪ね。どうしても教えられない?」
『うん』
「せめて、何か喋って欲しいな。‥‥あたしのこと、キライになった?」
『す』
き、と途中まで書きかけて、彼は顔を赤くする。慌ててペンでそこを塗り潰し、こくりと頷いた。
そして、『す』の下に続けて文字を書く。
『いまはだめ、もうすこし』
「もう少し‥‥?」


「何がなの」と娘が訊いた時には、少年の姿は目の前に無くて。
『またくるよ』
スケッチブックいっぱいにメッセージを掲げ、小さな手を振っている様が遠くにあった。




商店街を抜け、蜜柑畑を越え、川べりを進み。
少年は、缶を手に抱えるように持ち直してひたすらに歩いた。当然――誰から声を掛けられても、声は出さない。
『ごめんね、はなしかけないで』

皆は揃って首を傾げたが、幼い子どもの気まぐれだろう、と途中からは何も訊かなくなった。




やがて彼が辿り着いたのは、町の外れにある小高い丘。
一気に駆け上がれば――どんよりとした空気を孕んだ空がぐんと近くなる。


缶を草の上で下ろし、蓋を開ける。
内部には、ぎっしりと詰まった青い液。人工的だからこその澄んだ色は、少年が願う空の色だ。








彼は刷毛を取り出した。缶の中にしっかりとそれを浸して、馴染ませて、


――――――――――――――――空に、大きく『一』を画く。



雲の上を横切るように引かれた、長い長い青の直線。








「空は、ここにあるよー!!」

彼は叫んだ。
缶を持ち出そうと決めた瞬間から、一言も喋らなかったけれど。

「‥‥‥‥みんな、思い出して。空って‥‥すっごく、すっごくキレイなんだ!!」




「ホントね。」



「だれっ!?」
驚いて振り返れば、和菓子屋にいたあの娘。
「お、お姉ちゃ‥‥」
「良かった、今度は喋ってくれるのね。さっきは‥‥どうして?」
隣に腰を下ろした彼女に、少年は狼狽した。
少し気まずそうにしているのは、恥ずかしさと照れ臭さのせいだろう。


彼は小さな声で答える。
「‥‥お祈りしてる時、人は喋っちゃいけないんだって。」
「お祈り?」
「うん。『空が明るくなりますように』って。」
一見意味の取りにくい返事であったが、娘にはすぐさま得心が行った。
「そっか‥‥あれから、もう一年も経つんだもんね‥‥。」






この町では一年近くもの間、曇りの日が続いている。
どんな高名な学者にも理由はわからず、奇妙かつ不気味な現象として恐れられるばかりだ。

『空の神様がお怒りになったのであろう』

まことしやかに流れる、空想めいた噂。
非常に信仰が厚い地域だけに、皆は不安ばかりを口にした。






「俺には、何も出来ないから‥‥」
頭上の雲より悲しそうな、彼の表情。
「なら‥‥ニセモノでもいいから、みんなに青空が見せたくって‥‥。」








少年が話し終えて、後。


「‥‥わかった。」
娘は和服の裾を正しつつ立ち上がると――所在無さげに置かれたままの缶を、ひょいと持ち上げた。
「それじゃ、あたしもやっちゃおうかな。」
「え?」
戸惑っている彼をよそに、子ども以上に子どもじみた笑みを浮かべ刷毛を握る。きちんと襷掛けをしているから、袖も邪魔にはならない。
そのまま腕を大きく動かして、曇り空に強く青色を撒く。
「それっ!!」

均一とは言えず色むらばかりの線であったが、たちまち空は華やいだ。


「うわぁ‥‥すごい‥‥!!」
少年が感嘆の声を上げる。その素直な感想が耳に届くなり、彼女はある提案をした。
「ねぇ、二人でやりましょうよ。」
「‥‥何、を?」

「空の模様替え。刷毛は二つあるんだし‥‥どうせこの缶、今更持って帰らないでしょう?」








丘の上から精一杯手を伸ばし、天を覆う灰色を塗り潰す。


一、一、一、一。


真っ直ぐな線は幾重にも重なって、予想外のコントラストを次々と生み出す。


二人がペンキを使い果たすまでに――――さて、どれくらいの時間が掛かったのだろう?








「「ふぅ‥‥。」」

並んで満足げに一息つくと、娘は少年の手を取った。顔にも身体にも青く染まっている箇所が所々ある。
「全部終わったし‥‥そろそろ、帰ろうか。」
「うん!」
「ちゃんと手洗いしたら、一緒におやつでも食べようね。」
彼女が繋いだ手を僅かに振りながら言えば、子どもの瞳はぱあっと輝く。
「いいの!?」
「頑張り屋さんにはご褒美が付き物よ。」


‥‥‥‥ね、小さな芸術家さん?










夢中になって画き続けた、数え切れない程の『一』の字。
――――その隙間から広がっていくのは、嘘の無い本当の青空。


少年と娘、‥‥それから空っぽになったペンキの缶と刷毛の元には、懐かしい陽だまりの温もりがあった。




〜The End〜
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爽やか‥‥になったかな?一応目標は「一周年に因んで『一』を用いた爽やか系」です(笑)
正直な話、『空に大きく一を画く』っていう一文を使いたいがために書きました;
ファンタジー以上ファンタジー未満(何)なお話ですが、雰囲気で読んで下さいな〜。


                    2005.6.16   藍咲万寿





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藍咲旅館様の1周年記念フリー小説を ちゃっかりと頂いてきちゃいました(*^-^*)
素敵です〜vv一筋の青が、世界を明るく染め抜いていく感じがして、
とっても爽やかですよね。こういう情景を描ける藍咲さんが、羨ましいです!
当サイトへの掲載もこころよくOKしていただけて、本当にありがとうございました!!